「投影」に気づく
今週のグッド・モーニング・バイブスでいちばん意味のある話は
投影に気づき、できる限りそれを手放す
ということだったと思います。
私たちはとにかく「投影」したがりであり、すぐやってしまいます。
お腹が痛くなると
きのうなにを食べた?
奥さんに小言を言われるストレス?
となってしまうのです。
お腹が痛いのは、「きのう食べたものが悪かったせい」かもしれませんし、「こごとのストレスのせい」かもしれませんが、そうではないかもしれません。
そもそも何の原因もないかもしれないのです。この世には幻肢痛といって、ありもしない腕の存在しない指先に痛みを感じることがあるものです。
「人のせいにしてはいけない」といった話をしたいのではまったくないのです。
ただただ、私たちに、物事の真の原因を突き止める能力があるかどうか、そもそも非常に疑わしいということと、真の原因を突き止めるよりは、なにも関係ないことに「悪のレッテル」を貼ることの方が容易だしよくやっているということを、よくよく自覚することで、例えば「先送りをゼロにできる」と言いたいだけです。
この原稿を書く直前、一瞬、先送りしたい誘惑に駆られました。最近noteが炎上騒動に巻き込まれているから、ついnoteに書きたくなりながら、noteに書かない方がいいような気がしたことが、先送り誘惑の遠因でした。
これを読んでも、私以外の人には、意味不明でしょう。
つまり、自分の中にあるなんらかの気分の悪さ(コーヒーの消化不良、くるぶしあたりのちょっとした冷え、脳内ドーパミンのごく微量の不足、腸内細菌の偏り、日光の幾度の若干の不足、30年前の母に叱られた無意識化の記憶、大学の同級生の女の子が私を誰も彼氏にしてくれなかったこと、ほか数億〜数兆個もの遠い要因)を、note炎上という私とほとんど何の関係もなく、substackに投稿することとはいよいよ無関係の現象に「投影」して、その「投影」の悪い画面が私に向かってくる(なぜなら投影元は自分だから)ので、「やる気がなくなった気がする」のです。
まったくなんと無意味なことでしょうか。
これをしかし止めると、実に不思議な光景が見えてきます。
さきほど、土曜日にしては早く起きねばならなかった妻が不機嫌そうに、「残ったからコーヒー飲んでいいよ!」と捨てゼリフ気味に言ってきました。これがすでに「投影」なのです。私はこのセリフから、「早朝に起きねばならない」妻の「不機嫌そうな」声色の「捨て」ゼリフをぜんぶ、自分の投影と切り離してみました。
すると次のようになったのです。本当に。
妻の声によるセリフ。
内容は、妻の残したコーヒーを飲んでいいという許可。これは私にとっては小さな幸運でした。
なにがすごいかというと、私の電光石火の「投影」能力です。私自身がまったく気づくことのできない高速度、かつ細部にわたる徹底ぶりのせいで、投影と現実がまったく見分けがつかなくなり、おかげで私は「投影」できない場合に比べて1億倍くらい苦しむ、いや、「投影」しなければ苦しみは「ゼロ」なので、計算不能です。
なぜか今日になって初めて、私は自分の投影していく様子が、まるでスローモーションのように完璧に理解できました。間違いなくこれを自分がやっている、と信じられないほど明瞭に認識できました。
おかげで、これまでよくわかっていた気がしたにもかかわらず、半分程度しか理解できなかった倉園佳三さんの
「自分はいかなる時でも平安でいたいと思うか?」
の意味が完全に了解された気がしたのです。
平安でいない瞬間を自分で作りだしたりしなければ、平安と平安の間欠というものがなくなるということがありうるということです。
「奥さんは本当に不機嫌だったんじゃないの?」
と引っかかる方もいらっしゃると思います。この問いが、私には本当にまったく何の意味も感じられなくなったのです。そのことをご理解いただけると本当にいいのですが!